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今回は元履正社高校(大阪)監督で、

現在は東洋大姫路高校(兵庫)の岡田龍生監督の指導についてお話します。

2022年4月に東洋大姫路高校に赴任するまでに

春9回、夏4回の甲子園出場で

春に準優勝2回、夏に優勝1回の実績を残しています。

大阪桐蔭をはじめ、大阪の高校野球では甲子園に出ること自体が大変と言われる中、

この実績は素晴らしいといえるでしょう。

そんな岡田監督はどのような指導を行っているのでしょうか?

岡田監督の経歴

岡田監督は幼少期から常に身近に野球があり、

お母さんは元女子プロ野球の選手だったそうです。

中学生の頃は野球と並行してバレーボールの活動も行っており、

とても運動神経が抜群だったことが伺えます。

その後、親戚の関係で縁があって、東洋大姫路高校に進学。

3年生のときに春のセンバツに出場して、ベスト4まで勝ち進みました。

その後、体育教師を目指して、日本体育大学へ進学。

卒業後は鷺宮製作所で1年間プレーした後、

コーチとして桜宮高校(大阪)で2年間コーチを務めたあと、

1987年に履正社高校の監督に就任します。

履正社高校の野球における環境

現在では全国屈指の強豪として名を馳せている履正社高校ですが、

野球における環境は全国の強豪校の中でも恵まれているわけではありません。

その理由は以下の点が挙げられます。

・学校からグラウンドまでの距離があるためバスでの移動が必要
・下校のシャトルバスの時間が決まっているため練習時間に制限がある
・室内練習場がないため、雨天の場合はできる練習に制限がある
・学生寮がないため、全国から有力選手を集められない

このような環境においても、センバツで準優勝2回、

夏の甲子園で優勝1回という実績を挙げるというのは、

驚異的と言えるでしょう。

一体、どのようにして履正社高校を全国屈指の強豪に押し上げたのでしょうか?

指導方針の転換期について

就任当初、全国的に無名の履正社高校を強くするため

岡田監督は非常に厳しい指導をされていたそうです。

その甲斐もあって、1997年の夏の甲子園に同校を初出場に導きます。

しかし2002年に岡田監督による行き過ぎた指導あったという

匿名の投書が同校と大阪府の高野連に届けられ、謹慎処分を受けことになってしまうのです。

このときの謹慎期間に自身の指導について見つめ直したとおっしゃっていますが、

簡潔に述べると「自主性」を重視した指導へと切り替えていくのです。

「自分で考える野球」を知った日本体育大学時代

高校卒業後、日本体育大学へと進学された岡田監督は、

カルチャーショックを受けたそうです。

それは何かというと、

日本体育大学は全体練習の時間が短く、

空き時間に自分で考えて自主練習を行っていたことです。

高校時代は、指導者から言われた練習しかしてこなかったとのことですが、

この自主練習の時間に何をすればいいのか、

最初はよくわからかったと岡田監督はおっしゃっています。

自主練習をするには、自分に何が足りないのか常に考え、

足りないものを練習で補い、ステップアップしたら

また足りないものを考えることが大切だ、とのことです。

アメリカで見た自己主張野球

先述した行き過ぎた指導による謹慎期間中に

今後の野球部指導について真剣に考えたとのことですが、

その時にふと思い出したのが、

日本体育大学時代に体験した「アメリカキャンプ」でのアメリカ人野球部員の姿でした。

まず驚いたのが、みんなが「プロ」を目指して野球を続けていることだったとのことです。

日本の学生のように卒業後は「一般企業」であるとか「社会人野球へ進む」という考えではなく、

ほとんどの選手が「メジャーリーグ」を目標に野球をしているのでした。

また選手たちが監督に対して何のものおじもせず、対等に会話している姿でした。

試合で使ってもらえなければ、「試合に出してほしい」と主張し、

「自分の足りないところはどこなのか?」と質問することもごく当たり前にあるのです。

かつての日本では監督やコーチに対して、このような質問をするのは許されない風潮があり、

(だいぶ当時と比べて変わっては来ていると思いますが、、、)

岡田監督はとても衝撃を受けたそうです。

謹慎期間中に、当時のことを思い出し、

これからは指導者と選手がしっかりと

コミュニケーションを取りながらやっていかないといけないと考えたのです。

「教えすぎない」指導で選手の自主性を育む

「教えすぎない」指導とありますが、

これまでの日本のスポーツ文化というのは指導者からの一方通行のやり方が主流でした。

岡田監督は現場復帰されてから選手たちと積極的にコミュニケーションを取り、

選手との意思疎通を図りました。

選手一人一人と、そのようなコミュニケーションを図っていくと

当然ながら時間も手間もかかるのですが、

コミュニケーションを図って初めてわかることもあり、

それらを続けることで岡田監督の選手への理解が深まると、

選手たちも岡田監督の意図するところを感じ取ってくれるようになっていったのです。

そして選手たちも自分が思っていることを伝えてくれるようになるのですが、

自分の意見を述べるということは、そこには自分の発言に対する責任感も生まれてくるのです。

岡田監督はそれが何よりも嬉しかったとおっしゃっています。

まとめ

では今回のまとめです。

今回のまとめ

履正社高校の野球における環境
・学校からグラウンドまでの距離があるためバスでの移動が必要
・下校のシャトルバスの時間が決まっているため練習時間に制限がある
・室内練習場がないため、雨天の場合はできる練習に制限がある
・学生寮がないため、全国から有力選手を集められない

指導方針の転換期について
・岡田監督による行き過ぎた指導によって、謹慎処分を受けてしまう
・この謹慎期間中に自身の指導について見つめ直して「自主性」を重視した指導へと切り替えていく

「自分で考える野球」を知った日本体育大学時代
・日本体育大学は全体練習の時間が短く、空き時間に自分で考えて自主練習を行っている
・自主練習をするには、自分に何が足りないのか常に考え、足りないものを練習で補い、
ステップアップしたら、また足りないものを考えることが大切

アメリカで見た自己主張野球
・アメリカでは、みんなが「プロ」を目指して野球を続けている
・選手たちが監督に対して何のものおじもせず、対等に会話している

「教えすぎない」指導で選手の自主性を育む
・これまでの日本のスポーツ文化というのは指導者からの一方通行のやり方が主流
・岡田監督は現場復帰されてから選手たちと積極的にコミュニケーションを取り、選手との意思疎通を図ってきた

→コミュニケーションを図ることで、選手の考え方もわかり、また選手側も自身の意図を汲み取ってくれるようになった

このように自身の指導を見直したことで、

履正社高校を全国屈指の強豪に育てた岡田監督ですが、

次回はもう少し岡田監督の指導を深掘りして、

ご紹介したいと思います。

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